本を読む=精神年齢で読む
すなわち年齢に関わらず読める。精神年齢に適した本が有るから。

YAのククリは書き手・読み手のものではない。
売り手のもの。

 角田さんは小6で宮沢賢治の童話。その後は太宰治にはまる。しかし14〜15歳の時には何読めばいいか分からなかった。賢治と太宰の中間に属する本が彼女が10代である頃無かった。しかもこの二人と彼女の現在と時代環境が違っていた。同じ雰囲気の同時代のものを探したが見つからなかった。今はその中間に属するものがたくさん出回っている。供給されている。

 おすすめの10冊は
1女生徒       太宰治
2青い月曜日     開高健
3第七官界彷徨    尾崎翠
4リチャード・ブローディガン詩集 
       R・ブローディガン
5カラフル      森絵都
6屋根にのぼって  オードリー・コルンビス
7アンダー・マイ・サム 伊藤たかみ
8奇蹟のようなこと  藤沢周
9シャンプー・プラネット ダグラス・クープランド
0恋の休日      藤野千夜

 いずれも主人公が10代特有の息苦しさを抱えている。やりたいことは薄ぼんやりと分かっているのだけどそこまでの距離が測れない。平凡な日常。どうしたらそこへたどり着けるのか分からない。やりたいこととできることが分かってくる。
 ここで15歳と20歳の体感できる時間の違いを。20歳ならば1年は少し辛抱したら過ぎることを知っている。15歳にはそれが分からない。この体感時間の違いが15歳と20歳の違いでもある。

 「10代で本を読むことの意義」―意義深い
角田さんは学校という空間が嫌いでなじめなかった。学校とは与えられることに慣れなさいというモノ。受け取らないと追い出される、追い出されたらどこへ行ったら分からない年頃。

 角田さんの通った女子高では色付のブラジャーは禁止されていた。校則で。
 彼女は今思う。色付ブラジャーを付けることは反抗?自分の考えではない。自分の頭で考えて色付ブラジャーするのではない。反抗に過ぎない。自分の考えはそこには無い。

 テスト― 答えと問い 正解の一つには辿り着けるもの。点数で計られるもの。これも自分の頭で考えたことではない??
 本を読む― 正解と不正解にある膨大な中間に触れること。テスト形式に慣れて答えを求めようとする強迫観念にとらわれない。


 以上が講演の約1/3。
十代に対する考察はそうだなぁとうなずく。
誰しもが感じていることだろう。自分の考えていることとほぼ同じことが知らない目の前の講演者の口から言葉になってこぼれた。ここで気持ちいいと感じた僕は大衆のなかの誰でもない状態かもしれない。
 一方、反抗については違うと思いたい。
まだ僕が10代の心から抜けてないという証か。
抜けださなくったっていいさ。考え無しの反抗とばっさり切り捨てられるのは辛い。10代向けの本も書いている人がこんなこと言うなんて。裏切られた気分?でも当りだとうなずく。

 学校・勉強については僕は違う考え。
学校そのものが与えてくれたものはつまらないものだったかもしれないけど、今ある僕との完全な断絶は無いと言い切れる。何か自分の思考法は少なからず学校教育から影響を受けている。悪しきにつけ。
いわゆる「論理的思考力」は正解に辿り着くまでをたどる訓練がされてないと無理。数学の勉強は必要なんだと思う。僕はとても苦手でありつづけたけれど。角田さんの考えは文学者としての発言だろう。


 コタツの灯 寒いし冷えるし 点けようか
 ここに来て がんばる冬に 不賛成


コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索